TCFD終了後、実務上はISSB(IFRS S1/S2)へどう移行しているのか
サステナビリティ経営やESG投資において、長らく世界的な共通言語として機能してきたTCFD。ビジネスの現場や企業のIR(投資家向け広報)資料、あるいは求人市場などを見渡してみると、現在でも「TCFD提言に基づく開示」や「TCFD対応」という言葉が日常的に使われています。
しかし実のところ、TCFDという公式な組織自体は、すでに2023年をもってその任務を完了し、解散していることをご存じでしょうか。「今でも使われているのに、活動完了したとはどういうことか」「実務上はこれからどうなるのか」。
本記事では、そもそもTCFDとはどのような仕組みだったのかという基本(4つの柱と11の推奨開示事項)をおさらいしつつ、現在の国際基準(ISSB)への移行トレンドと、それが「あなた自身のキャリアや市場価値にどう直結するのか」というリアルな現在地を、ESG初心者にも分かりやすく解説します。
1. そもそもTCFDとは?基本となる「4つの柱」と「11の推奨開示事項」をおさらい
まずは、既存の知識を整理するためにも、TCFDがどのような開示フレームワーク(枠組み)なのか、その基本をおさらいしましょう。
TCFDとは、「Task Force on Climate-related Financial Disclosures」の略称であり、日本語では「気候関連財務情報開示タスクフォース」と訳されます。主要な国際機関である金融安定理事会(FSB)によって2015年に設立されました。
「従来の開示」とTCFDの最大の違い
TCFDの本質を理解する上で重要なのが、それまでの「従来の開示」との違いです。1990年代後半から2010年代前半にかけて多くの企業が自発的に発行していた「環境報告書」や「CSR(企業の社会的責任)レポート」は、主に消費者や地域住民、従業員、環境NGOといった幅広い社会全般に向けたものでした。その目的は「我が社はこれだけ環境に配慮し、社会貢献活動をしています」という、企業のイメージアップや社会的責任を果たすことにありました。
これに対し、TCFDは「投資家や金融機関(資本市場)」へ向けた情報開示です。視点そのものが以下のように大きく転換しています。
- 従来の視点(企業 ⇒ 環境):「自社の事業が、環境にどのような影響(負荷)を与えているか。だからどう配慮するか」
- TCFDの視点(環境 ⇒ 企業財務):「気候変動や環境変化が、自社の将来の儲け(財務)にどのようなリスクや機会を与えるか。だから経営戦略としてどう乗り切るか」
投資家が「この企業は将来も生き残って利益を出せるか」を冷徹に判断するための材料(効率的な資本配分)として開示を求めている点が、最大の特徴です。
TCFDが掲げる「4つの柱」と「11の推奨開示事項」
TCFDの提言では、すべての企業が共通して開示すべき項目として、以下の「4つの主要勧告(4つの柱)」と、それに紐づく「11の推奨開示事項」を掲げています。
1.ガバナンス(2つの推奨開示事項)
気候関連のリスクおよび機会に対する、組織の監視・管理体制を開示します。
- a. 取締役会の監督体制:取締役会が気候変動問題をどのように監督しているか。
- b. 経営陣の役割:経営陣がリスクや機会を評価・管理する上でどのような役割を担っているか。
2.戦略(3つの推奨開示事項)
気候関連のリスク・機会が、企業の事業、戦略、財務計画に与える実際および潜在的な影響を開示します。
- a. 識別したリスクと機会:短期・中期・長期にわたり、どのようなリスクと機会を特定したか。
- b. ビジネス・財務への影響:特定したリスクと機会が、事業、戦略、財務計画にどのような影響を与えているか(または与えるか)。
- c. 戦略のレジリエンス(強靭性):2℃以下シナリオなど、異なる気候シナリオを考慮した上での自社戦略の柔軟性や強さ(シナリオ分析)。
シナリオ分析とは何か?
シナリオ分析とは、「未来の地球環境がどう変化するかについて、いくつかの異なる予測(シナリオ)を仮定し、それぞれの世界で自社のビジネスや財務がどのような影響を受けるかをシミュレーションすること」です。
主に、以下の2つの対極的な未来を想定して分析を行います。
- 1.5℃〜2℃シナリオ(世界が脱炭素に向けて激変する未来): 温暖化は抑えられますが、世界中で強力な環境規制や「炭素税(CO2排出への課税)」が導入されます。企業にとっては、化石燃料の価格高騰や、従来の製品が売れなくなる「移行リスク」が財務に重くのしかかります。
- 4℃シナリオ(対策が進まずに温暖化が進行する未来): 新たな規制は増えませんが、地球温暖化によって異常気象が激甚化します。企業にとっては、台風や洪水で自社の工場が水没したり、原材料の調達網が寸断されたりする「物理的リスク」が財務に直撃します。
どちらの未来が訪れても「我が社はこのような対策を用意しているので、財務的に生き残ることができます」という経営の強靭性(レジリエンス)を投資家に証明するために、この分析が必要となります。
3.リスク管理(3つの推奨開示事項)
気候関連リスクを識別、評価、管理するプロセスを開示します。
- a. リスク識別・評価のプロセス:気候関連リスクをどのように発見し、評価しているか。
- b. リスク管理のプロセス:特定したリスクをどのように管理・対策しているか。
- c. 全社リスク管理への統合:上記のリスク識別・評価・管理のプロセスが、企業全体の総合的なリスク管理システムにどう組み込まれているか。
4.指標と目標(3つの推奨開示事項)
リスクや機会を評価・管理する際に用いる指標と目標の実績を開示します。
- a. 評価に用いる指標:戦略やリスク管理プロセスに沿って、どのような指標(水ストレス、エネルギー使用量など)で管理しているか。
- b. 温室効果ガス(GHG)排出量:Scope 1(直接排出)、Scope 2(間接排出)、および該当する場合はScope 3(サプライチェーン全体の排出)のデータ。
- c. 削減目標と実績:気候関連リスク・機会を管理するために設定した目標と、その達成に向けた進捗実績。
このシンプルかつ本質的な4つの枠組みと11の項目は、世界中で広く利用され、サステナビリティ開示の確固たる土台として定着してきました。
2. TCFDはなぜ「終了」したのか?ISSBへの移行
このように広く普及したTCFDですが、なぜ「活動完了」や「解散」に至ったのでしょうか。その背景には、サステナビリティ開示を世界の「共通ルール」へと一本化するための前進がありました。
「アルファベットの羅列」からの脱却
これまでは、様々な民間団体が独自の開示基準を乱立させていたため、企業にとっては「どの基準に合わせればいいのか分からない」、投資家にとっては「企業ごとの比較がしにくい(非互換な報告)」という、いわゆる「アルファベットの羅列(アルファベット・スープ)」が大きな課題となっていました。この状況を解消し、世界の資本市場における情報開示のグローバルな基準として一本化するために設立されたのが、ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)です。
金融安定理事会(FSB)による活動完了の宣言
2017年に発表されたTCFDの最終提言は、世界の気候関連開示規制の基盤となるなど、確かな成果を残しました。最終的に、企業や民間社会、政府を含む4,800以上の組織がTCFD提言への賛同を表明し、世界の2022年GDP(国内総生産) の約60%に相当する19の管轄区域でTCFDに準拠した規制が最終決定または提案されるにいたりました。
ISSBが設立され、この世界共通の新しい開示基準(グローバル・ベースライン)が形作られたことを受け、親組織である金融安定理事会(FSB)は「TCFDは当初の目的を十分に達成し、ISSB基準がTCFDの活動の集大成となった」と判断しました。
2023年7月、FSBはTCFDの活動が完了したこと、および今後の進捗モニタリング業務をIFRS財団(ISSBの母体)へ移管することを発表しました。そして2023年10月、TCFDは第6回目となる「2023年の状況報告書(2023 Status Report)」の公表と同時にその任務をすべて全うして正式に解散しました。つまり、終わったのは「組織としての活動」であり、その役割は新しい国際基準へと完全に引き継がれたのです。
3. ISSBが定めた2つの新基準:IFRS S1とIFRS S2
TCFDを吸収・統合する形で、ISSBが発行した初の国際基準が「IFRSサステナビリティ開示基準」です。実務上は、以下の2つのパッケージを組み合わせて適用することになります。
IFRS S1:「サステナビリティ一般」の開示ルール
正式名称は「サステナビリティ関連財務情報の開示に関する一般要件」です。気候変動に限らず、企業が短期・中期・長期にわたって直面するあらゆるサステナビリティ関連のリスクと機会を投資家に伝えるための、包括的な基本ルールを定めています。報告書の書き方やタイミング、情報の集計方法など、すべてのサステナビリティ財務情報の概念的な土台となります。
IFRS S2:「気候関連情報」に特化した開示ルール
正式名称は「気候関連開示」です。IFRS S1をベースにしつつ、気候変動のリスクと機会に特化して、具体的にどのような情報を開示するべきかを厳密に規定しています。このIFRS S2こそが、実質的なTCFDの「正統な後継ルール」です。
4. TCFDの資産はどのように引き継がれているか:あなたの実務経験の価値
企業の実務担当者やコンサルタントにとって最も重要なのは、「TCFDでやってきた実務は無駄になってしまうのか」という点ですが、心配はありません。
4つの柱と11の推奨事項の完全なる継承
TCFDの核であった「4つの主要勧告」と「11の推奨開示事項」は、IFRS S1およびIFRS S2の中にすべて統合され、整合しています。
骨組みや要求される情報の方向性が完全に一致しているため、すでにTCFDの提言を導入し、精通している企業にとっては、新基準を適用するための手間や学習の負担(ラーニングカーブ)が大きく軽減されるように配慮されています。
IFRS財団が公表している公式の対応比較資料でも、「IFRS S1およびIFRS S2を適用する企業は、自動的にTCFDの勧告を満たすことになる」と明記されています。そのため、企業は新基準に加えてわざわざ個別にTCFD勧告を重ねて適用する必要はありません。
TCFD最終報告書が指摘したデータギャップと、実務レベルの「追加要求事項」
一方で、TCFDが解散直前の最終報告書(2023 Status Report)で指摘した重要な実務課題があります。それは、「企業の開示進捗は見られるものの、気候変動が実際の事業、戦略、財務計画に与える具体的な影響(財務インパクト)の報告は、依然として遅れており大きなデータギャップが存在する」という懸念です。
新基準であるIFRS S2は、このデータギャップを埋めるべく、TCFDの上位互換としてブラッシュアップされており、実務レベルでは以下のような要件が追加されています。これらは、移行期にある転職市場において、「あなたの今後の市場価値を左右するコア・スキル」にそのまま翻訳することができます。
- 業界別指標の開示要件: 全業界共通のガイドラインだったTCFDに対し、IFRS S2では企業が属する業界の特性(SASB:サステナビリティ会計基準審議会の基準がベース )に応じた「業界別指標」の開示を求めています。自社の属する業界固有の非財務指標に精通していることは、他社への移行時に強力な武器になります。
- スコープ3(Scope 3)の測定方法の透明性: サプライチェーン全体の排出量であるScope 3について、単に数値を出すだけでなく、測定方法や使用した入力情報・仮定などのより詳細な開示が要求されます(指針として「Scope 3測定フレームワーク」も規定されています)。複雑なサプライチェーンのデータマネジメントを主導した経験は、即戦力人材として最も高く評価される要素の一つです。
- 炭素クレジットの利用計画: 排出量削減目標を達成するために、企業が計画している炭素クレジットの利用に関する具体的な情報の開示を義務付けています。実質的な削減戦略とクレジット調達の透明性を担保する実務スキルは、今後さらに重宝されると考えられます。
- より詳細な記述要件とシナリオ分析の自律性: ガバナンスにおいて「誰がどのようなポリシーや職務記述書で責任を負っているか」の具体化や、シナリオ分析を実行する際に、特定の固定シナリオを指定されるのではなく、自社の状況に最も関連性の高いシナリオを自ら選択し、その選定理由や考慮した不確実性を明確に記述する要件などが追加されています。固定の枠組みをなぞるだけでなく、ビジネス特性に合わせたシナリオを自ら立証できる能力は、経営企画やCFO直属のハイクラスポジションで求められる「ビジネスと環境の統合力」そのものです。また、IFRS S1の適用により、気候変動を超えた「サステナビリティ一般」の観点から、さらに情報を分解・集計して開示することが求められる可能性もあります。
5. なぜ今も「TCFD対応」という言葉が残っているのか
制度としてはISSB(IFRS S1/S2)へ統合されたにもかかわらず、なぜ今もビジネスの現場では「TCFD」という言葉が一般的に使われているのでしょうか。それには、現実的な過渡期ならではの理由があります。
- 企業にとっての「良い出発点」だから:TCFDの組織自体は解散しましたが、提言そのものは引き続き利用可能です。広く知られ定着しているTCFDの4つの柱と11の推奨事項をまずはクリアすることが、企業が将来的にISSB基準へとスムーズに移行を進める上での有効なステップ(出発点)として機能しています。
- 既存のナレッジ資料が今も役立つから:実務の現場で広く活用されている事例集やガイドライン(ナレッジハブ等の資料)の多くはTCFDを参照して作られています。IFRS S2がTCFDを内包しているため、これらの過去の資料が今でも開示資料を作成する上で「依然として役立つ」という実態があります。
- 各国の法規制の文言が残っているから:各国の証券取引所のルールや法規制において、「TCFDの枠組みに基づく開示」という文言が残っているケースがまだ多いため、形式上の法規制を満たすという意味でも「TCFD対応」という言葉が並行して使われています。
6. 日本企業・SSBJへの影響と今後の方向性
では、私たち日本企業には今後どのようなスケジュールで影響してくるのでしょうか。ここで鍵となるのが「SSBJ基準」です。
国際基準である「IFRS S1/S2」をそのまま日本の法律に当てはめるのではなく、日本の法制度やビジネス慣行、企業への影響を考慮して国内向けに調整した「日本版のISSB基準(SSBJ基準)」の策定がサステナビリティ基準委員会(SSBJ)によって進められています。SSBJ基準は国際基準と実質的に同等(整合)になるよう作られているため、問われる実務の本質(11の推奨事項をベースにした開示+追加要件)は同じです。
日本国内においては、2021年の東京証券取引所によるコーポレートガバナンス・コード改訂、および2023年からの有価証券報告書へのサステナビリティ記載欄の義務化により、すでにプライム市場上場企業を中心にTCFDベースの体制構築(実質的な義務化対応)が一巡しています。
今後の有価証券報告書での具体的な義務化スケジュールについては、この既存の東証のルールや有価証券報告書の枠組みを、さらに「ISSBと整合したSSBJ新基準」へと段階的に切り替えていく方向で、金融庁などの規制当局を中心に検討が進められています。
これまでTCFDの提言を活用し、真摯に取り組んできた企業は、新しい基準への適用を開始する上で、すでに非常に有利な立場にあります。今後は、自社の管轄区域の開示要件にどのように対応していくか、規制当局や専門のコンサルタント、法律顧問などと相談しながら、段階的に実務をIFRS/SSBJ基準へとアダプト(移行)させていくことが求められています。
7. まとめ
本記事では、長らくサステナビリティ開示の主役であったTCFDがその任務を終え、世界共通の新しい国際基準である「ISSB(IFRS S1/S2)」へとどのように移行したのか、その現在地を紹介しました。
激変するサステナビリティ領域において、これから私たちが捉えておくべき最も重要なポイントは、以下の3つです。
- TCFDは2023年に解散しましたが、その「4つの柱と11の推奨事項」のDNAは国際基準であるISSB(IFRS S1/S2)へと完全に引き継がれ、発展しました。
- 新基準では、TCFDの枠組みをベースにしつつも、財務への影響(データギャップ)を埋めるため、「業界別の指標」や「Scope 3の明確な測定」など、より厳密で比較可能性の高いデータ開示が求められます。
- 企業がこの新基準へ移行することは、資本市場における複雑さやコストを軽減し、ガバナンスや戦略の透明性を高めて資本コストを削減するメリットがあります。
国内でも、新基準(ISSB/SSBJ)に準拠した有価証券報告書での開示に向けた法制化が進められており、TCFDの仕組みを基礎から理解している人材や、社内でのデータ集計・調整の経験を持つ人材を求める動きは着実に広がっています。
すでに実務に携わってきた方はもちろんのこと、これからこの分野に挑戦しようとしている方にとっても、共通の土台であるTCFD(4つの柱と11の推奨事項)を正しく把握しておくことは、今後のキャリアを築く上での大きな強みになります。
開示ルールが新しい国際基準へと数年をかけて段階的に切り替わっていく過渡期の最中だからこそ、これまでの自らのスキルを棚卸しし、これからのキャリア戦略を考えてみる良いタイミングと言えます。サステナビリティ領域の最前線で次のキャリアステージを目指す方は、この移行期の変化をご自身のさらなる成長の契機として捉え直してみてはいかがでしょうか。










